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1858(安政5年) |
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11月20日、相模国津久井県又野村(津久井郡津久井町又野)に生まれる。父行正、母貞の長男。 |
1874(明治7年) |
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福沢諭吉の慶応義塾に入学。 |
1876(明治9年) |
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慶応義塾退学。工学寮(のちの工部大学)に入学。翌年退学。 |
1879(明治12年) |
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10月福沢諭吉の推薦により新潟新聞の主筆になり、新潟に赴任。 |
1881(明治14年) |
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統計院権少書記官となる(統計院総裁は大隈重信)「14年の政変」で大隈の免官とともに退官。 |
1882(明治15年) |
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郵便報知新聞の論説記者となる。 大隈を総裁として立憲改進党を組織。 |
1885(明治18年) |
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東京日本橋区より推されて東京府会議員となる。朝野新聞にうつる。 |
1887(明治20年) |
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後藤象二郎を盟主として大同団結「丁亥倶楽部」を結成。 藩閥政治反対の運動を展開。12月25日、保安条例により東京退去を命ぜられる。 |
1888(明治21年) |
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1月31日、海外視察の旅に出発。 翌年12月24日帰国。 |
1890(明治23年) |
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第一回総選挙、三重県より立候補して当選(萬31才)。 |
1896(明治29年) |
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大隈重信を総裁として野党合同し、進歩党を組織。9月18日、松隈内閣(総理大臣松方正義、外務大臣大隈重信)の外務参事官となる。 |
1898(明治31年) |
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6月30日、大隈内閣の文部大臣に就任。 8月22日、共和演説事件。 10月24日、文部大臣を辞職。 |
1903(明治36年) |
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6月29日、東京市長に就任。 |
1912(明治45) (大正1) |
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桜の苗木3000本を東京市からワシントンに贈る。6月27日、東京市長を辞職 憲政擁護運動をおこし、先頭に立って活躍。 |
1913(大正2年) |
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2月5日、桂内閣弾劾演説(議会政治史上名演説として伝えられる) |
1914(大正3年) |
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4月16日、大隈内閣の司法大臣に就任。 |
1916(大正5年) |
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10月4日、大隈内閣総辞職により、司法大臣辞任。 |
1919(大正8年) |
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3月17日、大戦後の欧米視察の旅に出る。12月31日、帰国。 平和主義、国際主義による世界改造の理想にもえる。 |
1920(大正9年) |
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普選運動の先頭に立つ。 |
1924(大正13年) |
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第2次護憲運動の先頭に立つ。翌年5月5日、普通選挙法公布。 |
1931(昭和6年) |
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8月13日、カーネギー財団に招かれ渡米、12月11日、英国に渡る。 |
1933(昭和8年) |
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夫人の遺骨(前年、テオドラ夫人客死)と「墓標に代えて」の論文を抱いて帰国(2月末) |
1937(昭和12年) |
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2月17日(第70議会)、辞世の歌を懐に入れ軍部攻撃演説。 |
1942(昭和17年) |
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4月第21回総選挙のいわゆる翼賛選挙に反対して、東条首相に公開質問状をおくる。 4月23日、選挙中、不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入る。12月21日、東京地裁で懲役8ヶ月、 執行猶予2年の判決。昭和19年6月27日、大審院で「不敬罪事件」無罪判決。 |
1945(昭和20年) |
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8月15日、日本無条件降伏。 |
1950(昭和25年) |
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5月16日、アメリカの「日本問題審議会」の招きにより渡米(6月27日帰国)。 |
1953(昭和28年) |
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4月19日、第26回衆議院総選挙、このとき初めて落選。 7月17日、衆議院名誉議院に推薦される。 10月1日、東京都名誉都民として顕彰される。 |
1954(昭和29年) |
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10月6日、逗子の風雲閣で永眠(満95才)。 |